2012年5月19日土曜日

五島列島 - Wikipedia


五島列島(ごとうれっとう)は、九州の最西端、長崎港から西に100kmに位置し、北東から南西に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって大小あわせて129の島々が連なる列島[1]。全島が長崎県に属し、人口は約7万人。自然海浜や海蝕崖、火山景観など複雑で変化に富んだ地形で、ほぼ全域が西海国立公園に指定されるなど豊かな自然景観を有している。島々には多くのカトリック教会が点在し、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指す取組みが進められていて、五島観光のひとつとして注目されている。昭和時代には、東シナ海で操業する漁船団の先端基地として栄えた。近年漁獲高は減少しているものの、いまも漁業が重要な産業であり、海産物が名物である。

「五島列島」とは学問的な呼び名であり、会話の中ではあまり使われない。地元や九州地方では単に「五島」と呼ぶことが多い。

五島列島は長崎県に属し、九州西端の長崎県本土や平戸島の西に位置し、北東側から中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島の五つの大きな島などからなる。国際水路機関による定義では、最も南西の福江島西端が日本海と東シナ海の境界とされている[2]。ただし、一般的には五島列島周辺の海域を「日本海」と呼ぶことはほぼ皆無で、「五島列島は東シナ海に浮かぶ島々」と紹介されることがほとんどである[3]

長崎県には非常に多くの島があるが、五島列島は多くの島々が本土や他の島とは少し離れた位置に密集しており、「五島」と総称されるまとまりを形作っている。島々は連なった山々が海に沈み高い部分だけが残って溺れ谷となった複雑なリアス式海岸線をもつ地形である。

五島列島は北東から南西に長く伸びているため、全体を大きく二つに分けて、五島最大の福江島を中心とする南西の島々を「下五島(しもごとう)」、2番目に大きな中通島を中心とする北東部を「上五島(かみごとう)」と呼ぶこともある。現在の行政区域では下五島が五島市、上五島が南松浦郡新上五島町に属する。「下五島」の呼び名はあまり使われないが、「上五島」は「中通島」以上によく使われる呼び名である。また、中通島の北にある宇久島、小値賀島などの島々も、行政区域としては佐世保市、北松浦郡小値賀町に属するもののフェリー・貨物船航路や警察の管轄区域など上五島と共通することも多いため、五島列島の一部とみなされることが多い。

[編集] 有人島

それぞれの島の面積・人口は、2005年(平成17年)10月1日現在[4]。なお、佐世保市(旧北松浦郡宇久町)・北松浦郡小値賀町の範囲についても記述する[5]


カトリック教会のために鐘を購入する場所

[編集] 佐世保市

  • 宇久島 - 面積:24.92km² 人口:3,216人
  • 寺島 - 面積:1.27km² 人口:23人

[編集] 北松浦郡小値賀町

  • 小値賀島 - 面積:12.22km² 人口:2,758人
  • 黒島 - 面積:0.24km² 人口:82人
  • 大島 - 面積:0.71km² 人口:93人
  • 斑島 - 面積:1.57km² 人口:272人
  • 納島 - 面積:0.65km² 人口:31人
  • 六島 - 面積:0.69km² 人口:31人
  • 野崎島 - 面積:7.10km² 人口:1人

[編集] 南松浦郡新上五島町

[編集] 五島市

  • 奈留島 - 面積:23.80km² 人口:3,322人
  • 前島 - 面積:0.47km² 人口:44人
  • 久賀島 - 面積:37.35km² 人口:514人
  • 蕨小島 - 面積:0.03km² 人口:9人
  • 椛島 - 面積:8.75km² 人口:231人
  • 福江島 - 面積:326.34km² 人口:40,322人
  • 赤島 - 面積:0.51km² 人口:10人
  • 黄島 - 面積:1.38km² 人口:52人
  • 黒島 - 面積:1.12km² 人口:17人
  • 島山島 - 面積:5.53km² 人口:35人
  • 嵯峨ノ島 - 面積:3.17km² 人口:209人

[編集] 年代不詳

1980年頃、当時の上五島町の相河地区の開拓村近くの埋立地にて、古代人の衣服に付けていた青銅製のボタンらしきものが発見された。発見者は県立高校教諭の計らいで、佐賀県の考古学者に鑑定を依頼した。その結果、古代人の衣服に付けていたボタンではないだろうかという回答が帰ってきた。青銅製のボタンは直径2cm程のお椀型で真中に小さな穴が開いており、鋳型の痕もクッキリ残っていた。尚、現物は当時の県立高校教諭に発見者が寄付したと言う。[要出典]

[編集] 上古時代から平安時代まで

五島列島に人が住み着いたのは早く、一部には旧石器時代にすでに人が住みついていたという。島では旧石器時代以降、縄文時代や弥生時代の遺跡が非常に多く発見されている。

日本人の先祖の大部分がどこから来たのかについては多くの説があるが、五島列島は済州島や朝鮮半島などに近く、また最近でも中国やベトナムからの難民を乗せた船が何度も五島に流れ着くなどしており、大陸南部から海流にまかせて流されれば五島に着く可能性も充分にある。五島では島々が密集していながら地続きではなく、全体としてはかなり大きいといえる。五島列島のどこにいてもたいてい海が見える。このような自然環境は漁労民には大きな利点であった。遺跡などから考えると、縄文時代の生活は同じ時代の本土と変わらないものであったが、その後弥生時代になると本土発祥の生活様式などがやや遅れて五島に伝わってくるようになったと思われる。ただし、時代が下っても平安時代には後期遣唐使が最後の寄港地と� ��るなど、本土から距離があるとはいえ大陸に近いということもあり、中央の文化と長く隔絶された状況ではなかった。


神々が信じるものの責任

古事記の国産みにおいて、イザナギ・イザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残である。また、イザナギ・イザナミが生んだ最後の「両児島(ふたごのしま)」は、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市 に入るが、この島も女島灯台が設置されるなど近年に至るまで重要な島であった。これらのことからも、古代において五島列島や周辺の島々が中央にもよく知られていたことが分かる。

740年(天平12)に大宰少弐藤原広嗣が乱を起こしたが敗れ、肥前国松浦郡の値嘉嶋長野村(ちかのしまながのむら、現在の宇久島)で逮捕され、断首されている。876年(貞観18)には、それぞれ値嘉郷・庇羅郷(ひらごう)とも呼ばれていた五島列島と平戸島地域を併せて値嘉島という行政区画とし、島司が置かれた。

[編集] 中世以降から五島藩の成立まで

その後中世に至るまで五島列島の政治勢力に大きな変化はみられなかったが、中世に至ると松浦水軍の松浦党に属した宇久氏が鎌倉時代以降に勢力を伸ばし、宇久島から五島列島のほぼ全域を支配下に収める。宇久氏は14世紀後半に宇久島から拠点を五島列島の南端で最大の島である福江島に移し、玉之浦納の反乱による衰退などを経ながらも、松浦党の中心勢力を統合した近接する平戸島の平戸松浦氏とも良好な関係を維持しつつ戦国大名となった。

また、戦国時代には倭寇(後期倭寇)頭目で貿易商人の王直が宇久氏の協力の下で活動の一拠点としている。このように、中世以降の歴史においてもは大陸や朝鮮半島に近いことが五島の運命を決定している。種子島への鉄砲伝来にも主導的な役割を果たしたといわれる王直は「五峰王直」の名でも知られるが、この五峰とは五島の別称である。五という数字を尊ぶ中国の発想から、ヤマトにおける「ちかのしま」は中国からは「五峰」または「五島」と呼ばれるようになり、それが日本にも伝わって五島の呼び名が定着したといわれる。

その後、豊臣秀吉が九州を征服すると宇久氏当主純玄はこれに臣従して1万5千石の領地支配を認められ、前後して五島氏と姓を改めた。五島氏は朝鮮出兵においても小西行長軍の一部として戦っている。

[編集] 藩政時代以後

江戸時代の五島列島は大半が福江藩(五島藩)五島氏の領地となり、小値賀島とその属島および中通島の最北端部は平戸藩の領地となっていた。このほか、福江藩の分家として福江島富江に富江陣屋を置いた富江領(交代寄合)があり、中通島の一部などにも富江領が存在したが、福江領と富江領の領民間で漁業権などをめぐる衝突がしばしば起こった。五島氏の領地は明治維新に至るまで続き、異国船の往来が増えた幕末に石田城が築城されて今日も福江の中心部に美しい石垣が残っている。

明治に入り、富江領は本藩(福江藩)へ合併されたがほどなく廃藩置県となり、福江県・平戸県を経て現在のように長崎県の一部になった。その後、鎖国政策の江戸時代には辺境の離島であった五島にも文明開化の波が押し寄せ、地勢学上の重要性から大瀬埼灯台や女島灯台などが建設されている。


誰がプリムを祝う?

昭和の時代においては海産物の水揚げや新しい加工技術の導入や養殖の増加に加え、戦禍をほとんど受けなかったことやサンゴ等の特産物がブームになるなどの幸運もあり、五島の人口は増加していき、最盛期には15万人を数えた。この間、1962年(昭和37年)には五島の中心地福江市の中心市街地が全焼する福江大火による大規模な被害を受けたが、経済成長の時代の勢いもあって見事に復興してむしろ市街地の近代化に成功し、五島藩の城下町とはいえ「離島の小集落」という印象が強かったそれまでの福江市街地を生まれ変わらせている。

近年では五島全域で人口が減少に転じ住民の高齢化も進んでいる。平成の大合併によって五島の行政区画が大きく五島市と南松浦郡新上五島町に集約されたものの、過疎・高齢化が著しく進んでいる。若年層が島外へ出て就職するケースが多いため、若者の就労機会を増やすための取り組みがなされている。

[編集] 五島のキリスト教史

1566年にイエズス会宣教師のルイス・デ・アルメイダらが五島にも来島してキリスト教(カトリック)の布教を行っている。これを受けて翌年に領主宇久純定の子の宇久純尭が洗礼を受け[6]、1571年に家督を継いでキリシタン大名となっているが、五島のキリスト教はその直後から豊臣秀吉や江戸幕府によるキリスト教禁止政策(禁教令)よって一度はほぼ完全に衰退している[7]。秀吉の時代には九州各地にかなりキリスト教が浸透していたが、キリシタンへの迫害が始まると多くは棄教するか潜伏キリシタンとなった。1597年に長崎で殉教した日本二十六聖人に中には五島出身の聖ヨハネ五島もおり、現在では福江島の堂崎天主堂 に彼の殉教を祈念する像が建立されている。

その後江戸時代中期に、五島藩は大村藩領からの開拓民を移住させる働きかけをし、1797年(寛政9年)、外海地方から108名が五島へ移住した。そのほとんどが潜伏キリシタンであったようだが、ここに五島におけるキリシタン信仰が秘密裏に復活した。彼らが藩から土地を与えられたことを知ると外海地方からの移住者が続々と増え、その数は3000名以上にも上ったといわれる。しかし、五島藩ではキリシタンに対する厳しい取り締まりはあまり行われなかったものの、今日のように信仰の自由が制度として保障されていたわけではなく、また、移民という立場から、五島の主だった港や平野部ではなく、山間部の僻地や、陸路での往来が困難な奥まった小さな入り江などに移り住んで小規模な集落を作った例が多い[8]。五島の潜伏キリシタンは迫害の時期にあってはこのような集落に隠れ住むようにして密かに信仰を維持し、特に明治維新前後の激烈な迫害を耐えた。

幕末の1865年、長崎の大浦天主堂で浦上の潜伏キリシタンが信仰を表明し、これ以降続々と長崎各地で多くのキリシタンがその信仰を明らかにし始めたが、神道の国教化目的のため江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府は、明治最初期に「浦上四番崩れ」と呼ばれる悲惨な宗教弾圧を引き起こした。この頃には五島各地のキリシタンにも、長崎で指導を受けた信徒によってカトリックの教義が伝えられて、多くのキリシタンが信仰を明らかにしていったが、これに対して五島藩はキリシタンを捕え、「五島崩れ」と呼ばれる弾圧を繰り返した。久賀島では、200名の信徒がわずか6坪の牢に8ヶ月間も押し込められ40名以上が死亡するという悲惨な「牢屋の窄(ろうやのさこ)」事件が起こっている[9]


このような迫害を耐え隠れて信仰を守り抜いた五島のキリシタン達は、その後明治政府の方針転換によってキリスト教の信仰が認められると五島各地に次々と聖堂(教会堂)を建てた。これらの教会は小規模のものが多いが、長崎にある日本最古のカトリック教会の国宝大浦天主堂建立直後といえる時期に建てられ既に100年以上の年月を経ている建物もあり、その後建てられた比較的新しい教会群とともに今も五島のカトリック信者の心のよりどころとなっている。また、明治期にカトリック教会に復帰することなく、先祖代々からのキリシタンの信仰を受け継いでいるカクレキリシタンの人たちもいて、近年は過疎化や生活習慣の変化のためその信仰伝承は途絶えてしまった所も多いが、いまもカクレの信仰を守る人も僅かながら存在� ��る[10][11]

五島は現在でもキリスト教徒(カトリック信徒)が比較的多い地域で、人口の10%以上がカトリックである[12]。五島の人にとっては小学校からカトリック信者のクラスメートがいるのはごく当たり前のことであり、いまはカトリックと仏教など他宗教との間に宗教上の争いなども特にない。五島列島であわせて51ヶ所のカトリック教会があり、教会のある風景は長く五島の日常となっているため、郷土五島のシンボルとして皆に愛されている。

2007年1月23日には、文化庁が長崎の教会群とキリスト教関連遺産のユネスコ世界遺産(文化遺産)暫定リスト入りを決めた。長崎県内の26箇所ある構成資産のうち、五島列島では7箇所[13]の教会群が暫定リスト入りをしている。

五島は九州本土と離れており、大きな工場などもないため、大瀬埼灯台などの雄大な景観や美しい砂浜など手付かずの自然が残っている。素朴な風土やキリシタンの歴史を物語る多くの古いカトリック教会など、五島の観光は他では味わいがたい風情がある。海産物をはじめとして、TVなどで取り上げられ全国的にも有名となってきた五島うどん、かんころもち、上質なことで知られる椿油などみやげ物も多い。夏休みの間は無人島での地引網体験の実施や、海底が見える観光用グラスボートの運航などもあり、家族で楽しむことができる。

[編集] 交通アクセス

五島列島までのアクセスは、福岡空港や長崎空港から福江空港に1日3往復程度の航空便があり、8月の2週間程度、関西国際空港から福江空港までの直行便が運航される。船便は長崎港からのフェリー・ジェットフォイル、博多港(福岡市)からのフェリーがある。上五島(中通島・小値賀島・宇久島)へは佐世保港からのフェリー・高速船もある。五島列島は、島同士はお互いに隣り合っているがほとんどが架橋されておらず、しかも鉄道はなく、バスも本数が多くないなど、公共交通機関はあまり便利とはいえない。五島列島を観光するならば一度に五島全部を見ようとせず、観光する島を絞って、事前にレンタカーや貸切タクシーの予約をしておくのも有効である。

五島藩の城下町であった福江では以前から商工業が見られたものの、元来五島では大多数が半農半漁の生活であった。上五島では古くから捕鯨など漁業が特に盛んで、東シナ海方面の遠洋漁業で潤った。現在ではこれに加えて観光も五島の主要産業となっている。

五島列島の周囲は日本屈指の好漁場であり、五島の海産物は古くからよく知られている。現代においても五島の水産物は味がよく、例えば五島の鮑(アワビ)は現代でも中国で最高級品とされるほど有名である。鮑に限らず、同じ海産物であっても都会では味わえないうまさがあるというファンも多い。近年ではインターネットによる通信販売なども盛んになり、都会でも手軽に味わえるようになった。


五島列島では複雑な海岸線を生かした養殖漁業も盛んに行われている。また、上五島の中通島ではオイルショック後に国策として石油備蓄基地が建設されている。かなりの面積や人口をもつとはいえ本土から離れた五島では大きな国の施設はめずらしく、異色の存在となっている。

豊富な水産資源に比べると、土地にはあまり恵まれておらず、山がちで平野が少ない。火山灰質の土地も耕作向きではない。このためか近世の甘藷(かんしょ、さつまいも)伝来以降、五島には甘藷が根付いており、甘藷を薄く切って天日で干した「かんころ」と呼ばれる干し芋や、これを餅にまぜてついた「かんころもち」という緑色の餅菓子は五島のシンボルである。

五島(下五島)では稲作も盛んである。夏場を過ぎると台風の被害を受けることが多いため、早稲の栽培が盛んで、多くの田では8月のお盆休みぐらいには稲刈りを終えてしまう。

2006年、五島列島近海での石油埋蔵の可能性が高いとの政府発表があった。詳細な調査はまだこれからだが、将来技術的・経済的に採掘可能となれば、五島列島近海に海上油田ができ、五島列島にも石油関連産業の施設が作られるという期待もでている。

1995年公開の怪獣映画「ガメラ 大怪獣空中決戦」では五島列島内に「姫神島」という島が登場するが、実際には存在しない。



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