2012年5月16日水曜日

† こちら亀有教会! 05/11/20 「礼拝より大切なこと」     マタイ5:21-26


 私が救われた教会の週報には、「聖日礼拝を厳守しましょう」と書かれていました。これは、「日曜日の礼拝を絶対守らなければならない、さぼってはならない」という意味です。最初からそういわれたので、その教会に8年間おりましたが、午前の礼拝を守れなかったことが2回だけありました。1回目は頭のパーマのかかりが遅くて、教会に1時間遅れで着きました。2回目は妹のことでどうしても行けませんでした。それでもあとからビデオ礼拝を守りました。では、本当に、聖日礼拝は厳守、絶対、守らなければならないのでしょうか?きょうは、聖日礼拝よりも大切なことをいくつか取上げて、学びたいと思います。

1.人との和解

 第一に、聖日礼拝よりも大切なのは、人との和解です。マタイ5:21―26節で言われていることは、兄弟との関係に問題があった場合です。礼拝に来る前に、「能無し」とか「ばか者」とののしったのかもしれません。その人は、礼拝に行く前に「ああ、自分はあの兄弟から恨まれているなー」と思い出しました。イエス様はどうおっしゃったでしょうか。「供え物を祭壇の前に置いて、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」と言われました。つまり、神様は喧嘩したまままの状態ではなく、仲直りしてから礼拝をささげなさいとおっしゃっているのです。心の中に怒りや憎しみをもったままで、「ハレルヤ!感謝します」と言っても、神様は喜ばない ということです。日曜日の朝、ご主人は、「早くしろ、また遅刻するぞ!」と、奥さんを怒鳴りました。そして、喧嘩したまま車に乗って礼拝に出席するかもしれません。そういう状態で、礼拝しても神様は喜ばれないということです。もちろん、来ないよりも来た方が良いとは思います。どうでしょうか?遠くから来られる方は、出掛けにちょっとした口論なんかあるんじゃないでしょうか。まさか、1週間、口をきいていないまんま、礼拝に揃って来るということはないでしょうね。冷戦状態のまま、礼拝に来るというのは「どうかな?」と思います。

岸義紘先生がまだ駆け出しの頃、ある宣教師の通訳をなさっていました。夜の集会が始まろうとするとき、宣教師は「用事を思い出したので、ちょっと家に行って来る」と言いました。岸先生は「ああ、腹かなー」と思いました。賛美を導いている間、10分くらいして宣教師は戻ってきました。いつものようにメッセージして、集会は終わりました。終わってから宣教師に、「どうしたんですか、お腹を壊しているのですか」と聞きました。すると宣教師は「ああ、集会に来る前に、家内とやりあってね。そこで絶対に言ってはいけないことを言ってしまった。勝ったなと思って、そのまんま来たんだよ。だけど、それでは良くないなーと思って、家内に謝って来たんだよ」と言われた。岸先生はそれを聞いてとっても感動� ��た。そんなことくらい、帰ったあとで「悪かった」で良いじゃないですか。しかし、宣教師は奥さんと仲直りしてから、神様のご用をなさったのです。集会後の帰り道は、とても美しい星空だったそうです。


人はパンのみにて生きるにあらません。

 パウロはガラテヤ書5章で言っています。「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです」。つまり、隣人を愛していることが、神様を愛していることの現われだということです。もし、あなたが隣人を愛していないなら、神様を本当に愛していないことになります。一昔、前のクリスチャンは人との関係よりも、神様との関係を何よりも大切にしました。それだったら、修道院に入って、毎日、ミサをあげていれば良いでしょう。神様はそれよりも、共同体としての礼拝をお喜びになられます。詩篇133篇にそのことが書かれています。見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」父なる神様が、和合している兄弟姉妹を喜んでおられます。そして、そういうところに神様は祝福があるように命じてくださる。こちらが、「祝福してください」といわなくても、神様が祝福を命じられる。まとこに、ハレルヤ!です。ですから、礼拝よりも、兄弟姉妹と仲直りすることが大切です。だから� ��言って、「喧嘩しちゃったからもう礼拝に出ない」ということをしないでください。礼拝に出て、「ああ、仲直りしよう」という順番があっても構いません。でも、父なる神様は兄弟姉妹が仲良く、御前に集うことを喜ばれるということです。神様が喜んだら、あなたに油注ぎを与え、祝福を命じてくださいます。

 

2.あわれみの心

 第二に、聖日礼拝よりも大切なのはあわれみの心です。イエス様は、マタイ9:13で「わたしはあわれみを好むが、いけには好まない」と言われました。これは宗教よりも、隣人をあわれむ心が大切だということです。イザヤ書58章にはまじめに礼拝を守るクリスチャンがびっくりしてしまうようなことが書かれています。イザヤ58:2以降を現代訳聖書から紹介いたします。「あなたがたは毎日のように神殿に来て、宗教行事を行なっている。そして彼らは言う。『私たちは断食したのに、あなたはご覧にならないのですか。』しかし、あなた方は、断食の日に勝手なことをし、そうして、労働者を虐げる。あなた方が断食するのは、争いと喧嘩をするためである。あなた方が断食をして祈っても、その祈りは神に届かない。私の喜ぶ断食は、そんな形式的なものだろうか。そんなものを、あなたがた� �断食と呼び、主に喜ばれるものだとでも思っているのか。私の喜ぶ断食は、労働者を虐げることをやめ、彼らを自由にしてやることだ。貧しい人には施し、宿無しを家に泊め、着る物のない人に服を与え、親戚に良くしてやることだ。その時、光が現れ、あなたはすぐに回復される。主が義と栄光を与えてくださる。また、あなたが主に求めると、主はすぐに答えてくださる。あなたが人に重荷を負わすことをやめ、人をあざけったり、無駄なおしゃべりをやめ、貧しい人に施し、苦しむ人を助けてあげるなら、あなたの光は暗闇の中に輝き渡る。主は絶えずあなたを良い物で満たし、あなたを潤った園のように祝福してくださる。」(2-11)


男は宗教を必要としません

 このみことばは、松戸で伝道しておられる岡野ご夫妻がある時に開かれたみことばです。岡野ご夫妻は今から20年くらい前、高田馬場から松戸に来て開拓から教会を始めました。伝道のためには何でもやりました。英会話伝道、映画、コンサート、特別伝道集会…3年くらいで30人くらい集まるようになりました。大成功です。それからさらに頑張るわけですが、不思議なことに人が増えたかなーと思うと、同じ分だけ去っていく。おかしいなーと思った。あるとき、子どもが熱を出しているのにも関わらず、奥さんは英会話のクラスに車で向かいました。なぜなら、それは絶対に休んじゃいけないものだったからです。奥さんは、ぜんぜん危なくない見通しのきく道路で、車をガードレールにぶつけてしまいました。� ��う、車が動かなくなりました。「神様、どうしてですか?私は大事な集会に行くところなんですよ」と文句を言いました。結局は、その集会を休まざるを得なかった。その翌日、二人でディボーションして示された箇所がさきほどのイザヤ書58章でした。58章は「労働者を虐げている」と書いてありますが、自分たちは教会員を虐げていた。教会はイベント、イベントで人を集めることが中心でした。ですから、教会員の伝道とは、チラシを配ったり、集会の椅子を並べることでした。教会員が、人を誘って来ないと、「なんでもっと伝道しないの」というさばき心があった。そのため、教会員たちは不満でいっぱいだったようです。その後、ご夫妻は、韓国のサラン教会に弟子訓練の学びに1週間ばかりでかけます。ところが、韓� �から帰って来たら、教会員のほとんどが、教会に来なくなった。そのことがあってから、岡野先生は「私は教会を潰しました」と証をなさいます。先生ご夫妻は、「ああ、自分たちは宗教行事をしていたんだ」と悔い改めました。そして、こんどは、貧しい人や弱い人を助ける、いわゆる「生活伝道」へと軌道を修正していきました。

 私もイベント中心の教会で育ちました。ですから、当亀有教会に赴任してから10年間は、イベント、イベントで人を集めることに専念しました。でも、それは大変疲れます。人が来るか、来ないか心配でたまりません。チラシ配りや椅子並べが伝道になってしまいます。教会は宗教行事であけくれてはいけません。それよりも、あわれみの心をもって生活をするということです。イエス様が「わたしはあわれみを好むが、いけには好まない」と言われたとおりです。もし、私たちが主に喜ばれる生活をするならどうなるでしょうか。「あなたの光は暗闇の中に輝き渡る。主は絶えずあなたを良い物で満たし、あなたを潤った園のように祝福してくださる。」エデンの園ように祝福されるということです。岡野夫人は子 どもが幼稚園生のとき、あえて問題のありそうなお母さんと友達となりました。普通だったら健康で明るい人と友達になるでしょうが、そうではなく、困っていそうな人の友となりました。そういう人の子供を預かってあげたり、送り迎えをしてあげました。不思議なことにそういう人は教会に来ません。それを見ているほかのお母さんが、「どうしてあなたはあのような人の友人になるの?あなたは本当に愛のある人ね。どうしてなの」と聞く。待ってましたとばかり、「私は高校のときノイローゼになったくらいの弱い人間よ。ただ、イエス様が、そうしなさいと言われたからよ」答える。岡野牧師は、受刑者を訪ねたり、またあるときは、彼らが仕事を見つかるまで家に預かったりします。本当に、一人ひとりを大切にする伝道をし� ��います。


イスラム教徒の理由であった​​マルコムXは、重要な

ルカ福音書に、サマリヤ人のたとえが書いてあります。強盗で襲われた旅人がひん死の状態で倒れていました。そこへ、レビ人と祭司が通りかかりますが、見て見ぬふりをして通り過ぎました。彼らは礼拝をささげに行く途中だったのかもしれません。困った人を助けることよりも、奉仕とか礼拝が大切だったのです。神様は、私たちが宗教行事をするよりも、あわれみの心をもって隣人を愛することを好まれます。礼拝に来る途中、人助けしたために遅れて来ても構いません。岡野先生は未信者の夫や子供がいる場合は、「礼拝終わったら、教会に残っていないでさっさと帰りなさい」と言っています。また、日曜日、家族のために来れなければ、月曜日でも火曜日でも良いと勧めています。私たちは聖日礼拝の考え方を変� ��る必要があります。

 

3.日々の生活

 第三に、聖日礼拝よりも大切なことは、月曜日から土曜日までの日々の生活です。ときどき、「日曜日は教会へ」という教会の案内を見るときがあります。昔は何とも思いませんでしたが、セル教会を志してから「どこか違うんじゃないかなー」と思うようになりました。ケチをつける気はありませんが、日曜日だけ教会に行けば、他の日はどうでも良いのでしょうか?アメリカではサンディ・クロージングなる小奇麗な服を着て礼拝に集います。賛美をして、メッセージを聞いて、献金して帰ってきます。日本の教会の多くは礼拝が1つの儀式(セレモニー)になっています。式順にならって、立ったり座ったりします。やがて説教者が特別な口調で話します。冗談を飛ばして笑わせるなんてとんでもない。説教は神のこ� ��ばだからです。会衆はそれを神妙な顔付きで聞きます。礼拝が終わると、雰囲気ががらっと変わり、みんなニコニコして人間ぽくなります。なぜ、礼拝のときからそういう顔じゃなかったのでしょうか。「これは聖日礼拝だから」と答えるかもしれません。悪いわけじゃありませんが、どこか変です。みなさん、「日曜日は教会へ」というのは、「日曜日は教会堂へ」というのが本当の意味ですね。教会というものは建物の中でなされる一連のプログラムではありません。聖書が言う教会とは、クリスチャンの群です。2人、3人がキリストの名によって集まるところ、そこが教会です。ですから、礼拝は家でもできるし、学校でも、会社でも、公園でも可能です。私たちは日曜日だけ神様を礼拝するのではありません。礼拝とは神様と� �交わりですから、日曜日の1時間半に限定してはいけません。初代教会のように毎日、どこかで礼拝して良いのです。私たちは宗教をしているのではなく、イエス様と日々、歩む、イエス様と一緒に生活することが重要であります。


 先日、インドネシヤに行きましたが、パプア・ニューギニアで宣教している方が「教会とは4つの壁に囲まれているところではない」と言いました。従来の教会は、教会という箱の中に人々を押し込めようとします。その中には、いろんな決まりや制度があります。日本ばかりか、世界的現象ですが、若者たちが教会に来ようとしません。組織という箱が嫌いだからです。しかし、教会とは何か、神様を中心にしたコミュニティであります。イエス様は人々のところに出かけました。使徒パウロもそうです。するとそこに、コミュニティが生まれたわけです。世の人々は本当のコミュニティを求めています。現代は家庭というコミュニティが崩壊しています。お父さんとお母さんが長い時間働いて、子どもとの交わりがあり� ��せん。オーストラリアでは50%が離婚しています。いても、親たちがアルコールやドラッグ中毒、子どもが虐待されています。若者たちもものすごく孤独で、愛を求めています。教会が、本当のコミュニティを提供すべきです。教会こそが、コミュニティのリハビリーセンターであります。そうしますと、教会が長い間、守ってきた制度とか、組織、伝統がいかに邪魔なものか分かります。私たちは教会を、日曜日なされるプログラムではなく、コミュニティと考えるべきです。私はインドネシヤに行って、「週報に書かれている礼拝人数○○名もおかしいなー」と思いました。あれは、日曜日、礼拝堂の椅子に座っている人の数です。しかし、もっと大切なのはこの世に弟子として遣わされている人が何人いるかです。教会の外には何十、何百万人の人た� ��がいるわけです。これを四角い箱の中に入れようとしたら、1000名教会がいくつあっても足りないですね。私たちは考え方を変えなければなりません。教会は建物ではなく、人々です、コミュニティです。日本の教会は「はじめに教会堂ありき」で教会堂を建てたがります。ものすごいお金がかかります。会堂建設のため争いや分裂も起こります。私の友人のある牧師も、今、四街道で会堂を建てようとしています。新会堂を建てようとしたら、何組かのご夫婦が教会を去ったそうです。いろんな妨げがあって、会堂がなかなか建ちません。本当に命を削られる思いをしているようです。でも、教会は建物ではなく人です。人が大勢なったら建物を借りたら良い。どうしてもだめだったら、建物を建てたら良いですね。インドネシヤのアバ� ��ブ教会は、立派な建物だと焼打ちにあうのでそんなすばらしい建物ではありません。しかし、50箇所で礼拝を開いているようです。迫害がひどくなったら、中国のように地下に隠れるしかありません。そのようなとき、教会は建物ではなく、コミュニティだということが分かるでしょう。


 もう一度申し上げます。教会とは日曜日に教会堂で行なうプログラムではありません。私たち自身が教会なのです。もし建物としての教会だったら、動くことができません。しかし、人々だったら町や学校、会社にもぐりこむことが出来ます。どこにでも教会を設立できます。あなたの家も教会になります。どうぞ、あなたの家を、あなたの会社を教会にしてください。これがセル教会の概念です。石原ジョシーがこのように言っていました。「日本には160万のひきこもりがいる。彼らが助けを求めてきたとき、本物のコミュニティがなければならない。いや、教会がなくても良い。コミュニティがあれば彼らは癒される。中にはキリストを信じないコミュニティがあるかもしれない。それはそれで良い。キリストを信� ��るコミュニティは教会になれば良い。あちこちの地区に、コミュニティ・センターが必要となるだろう。私たちはそのコミュニティを作っていく必要がある。」そのようにおっしゃっていました。だから、みなさん。私たちは教会の概念を変えなければならない。教派や伝統や組織に固まっている教会ではなく、動く生きた教会。「パウルの動く城」じゃないけど、教会がキリストのからだであるなら動くのが当然です。からだが立ったままで動かないなら病気か死んでいる状態です。教会がからだなら、手も足も動きます。教会がからだなら目も口もあるし、感じる心もあるはずです。初代教会は、毎日、どこかで集まっていました。そして、毎日、人々が救われていったのです。セルの集まりも教会堂ばかりではなく、あなたの家や� �なたの職場、あなたの学校で、あなたの地域で未信者をまきこんでできないでしょうか。同じ仲間も良いけど、全く違った新しい人も加えましょう。もっと、過激になりましょう。主は、「収穫は多いが、働き人が少ない」とおっしゃっています。セルも動く細胞として、あちこちに潜入して、あちこちへと増え広がるのです。柏に、松戸に、流山に、金町に、小岩に、高砂に、青砥に、綾瀬に、東和に、堀切に、墨田に、森下にはびこって行きましょう。教会は建物ではありません。コミュニティです。2人3人いたらもう教会になるのです。平日、何らかの集りを持ちましょう。亀有に来る必要はありません。あなたの地元で礼拝をささげるのです。みことばを分かち合い、さんびして、祈れば、もう立派な礼拝です。互いに祈れば、 もうそこが教会です。亀有にだけ大きな灯は必要ありません。平日、あなたの地域に、灯をともすのです。すると、地域が聖められ、やがて日本が聖められていきます。



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