歴史上,英語読みでジュリアス=シーザーと呼ばれるのは,ローマ最大の英雄,彼らの言葉ラテン語では,ガイウス=ユリウス=カエサル(Gaius Julius Caesar)のことである。
カエサルは,紀元前100年ローマの貴族の家に生まれた。これには異説もあるが,ともかくイエス=キリストが登場する約100年前,彼はこの世に生を受けた。生まれたのは,その名のとおり「帝王切開」(Caesarian operation)によったという。生まれた日は7月13日であったというが,のちに彼は神として祀られ,彼の生まれた月がユリウス(Julius)の月,すなわちJulyと呼ばれることとなった。(なお,これは蛇足であるが,8月=Augustというのは,カエサルの養子で,のちに初代ローマ皇帝となるアウグストゥス(AUGUSTUS)の月という意味である。)また一般にローマ人は3つの名前を持つが,この3つは,個人名・氏族名・姓である。つまり,ガイウス=ユリウス=カエサルとは,ウェヌス(ヴィーナス)神の末裔であるユリウス一族の,カエサル家の,ガイウスさんということになる。
彼の生きた紀元前1世紀は,ローマ史上「内乱の一世紀」といわれる戦乱の時代であった。紀元前6世紀頃(伝説では,紀元前753年)建設されたローマは,最初王政であったが,紀元前6世紀の末,異民族のエトルリア系の王を追放して共和国となった。しかし,その実権は一部の貴族に握られており,平民たちは何ら権利を持たなかった。これから数百年間およぶ平民の権利闘争の歴史は,それだけで1冊の本になってしまうのでここでは省略するが,紀元前1世紀,一部の有力者たちはクリエンテーラというピラミッド型の親分子分関係を形づくり,私兵を擁して,お互いに対立抗争する状態にあった。あたかも暴力団の抗争を思わせる時代である。打ち続く内乱に加えて,有名なスパルタクスの率いる奴隷反乱や,ゲルマン民族の侵入な� �が相次ぎ,ローマは全く麻のように乱れていた。カエサルがローマの政界に登場したのは,まさにこの戦国の世であった。
さて,そのカエサルは,
「さいは投げられた。」 「ブルータス,お前もか。」
水銀(ローマ神)彼のシンボルは何ですか
などの,誰もが一度や二度は耳にしたことがある名言や,シェイクスピアの名作『ジュリアス=シーザー』などによって余りにも有名な人物である。しかし,決して日本人になじみ深い人物とは言えない。だが,実際は,信長のカリスマと,秀吉の人望と,家康の組織力を兼ね備え,しかもその上Gacktの色気とガンジーの慈悲さえも,ともに授かった,歴史上稀有な魅力を持つ人物であり,欧米人にとっては,まさにタイム誌の表紙を一人で飾る"The Man of The History"といってもいい人物である。
大した家柄出身ではない彼であったが,大政治家マリウスの親戚筋にあたるということから政界に乗り出し,その母性本能をくすぐるルックスと,天才的な弁舌の冴え,そして何よりもその度胸のすわった態度によって,たちまちローマの人気者となった。
しかしカエサルは,マリウスの死後ローマの政権を握ったスッラににらまれ,その後の出世は容易なものではなかった。
その彼に転機が訪れた。スッラが死に,その跡目を狙う大将軍ポンペイウスとローマ史大の富豪クラッススの対立が抜き差しならぬことになってきたのである。しかし,両者とも一人でローマを牛耳る力はなかった。というのも,ポンペイウスは,そのあまりの権勢のため元老院に敵視され,クラッススは民衆の嫌われ者であったからである。その隙間にカエサルの生きる道が見えた。まだ,何らキャリアもない青二才で,権力も持たず,地盤も金もない彼。(金はないどころか,彼は借金の天才であった!)しかし,借金してまで集めた金をローマ市民が求める「パンとサーカス」に放出しつづけ,他の二人には絶対にないもの-民衆の圧倒的な人気-を持っていた彼。八方ふさがりとなったポンペイウスとクラッススは,カエサルの人気� ��当てこんで,彼を仲間に引き入れた。これが世に言う「第1回三頭政治」(前60年,カエサル40歳のとき)である。
ローマの二大巨頭のサポートを得た彼は,翌前59年の執政官(コンスル)となる。これは,ローマの大統領とも言える最高官職である。(もっとも任期は1年で,一度に2名が就任するのだが) カエサルは,執政官になると,元老院議事録の即時公開(世界初の「新聞」!),混雑解消のため昼間の荷馬車のローマ進入禁止(世界初の「交通規制」!)などの斬新な政策を次々と行い,ますます民衆の人気者となっていった。
ローマでは,執政官などの高級官職を務めた人物は,その翌年から属州(一種の植民地)の総督として派遣されるのが常である。そしてカエサルに割り当てられたのは「属州ガリア」であった。
入植者は、兵士に投げた雪玉は何だった
属州ガリアとは,カエサル就任当時は,北イタリアと南フランス一体を示すだけの言葉であったが,カエサルは,これを実力でフランス全土とベネルクス方面へと拡大していった。この9年間に渡る「ガリア戦争」は,カエサルの筆になるラテン語の名文中の名文(日本で言うなら「古事記」+「源氏物語」+「平家物語」のようなもの)である戦争報告書集「ガリア戦記」に詳しいが,これはまさにカエサルの将来を賭けた戦争でもあった。
ガリアの住民は今ではケルト人と総称される人々で,現在はアイルランドやスコットランド周辺に居住しているのみであるが,当時は中欧における支配的な民族であった。彼らは,ローマ人から見れば「野蛮人」であったが,当時はかなりギリシア・ローマの文化に触れ,文明化も進んでいた。そのガリアに向かってカエサルの軍隊が襲いかかった。突然ガリアを襲ったローマ軍は,あたかも,ベトナムに対して大物量戦術で臨んだ米軍のような理不尽な存在であっただろうか。しかし,カエサルはやみくもに力で押すことはせず,ガリア各地にシンパ(ローマでは「クリエンテース」という)の部族を作りながら,その地を拠点に攻略を進めていった。彼は,ただガリアのみにとどまらず,ブリタンニア(イギリス),ゲルマニア(ド� ��ツ西部)にまで軍を進め,ローマの歴史にまったく新しい地図をもたらした。この戦争は確かに苦しいものであったが,これを通じて,カエサルはクラッススに対抗できる財力と,(敗れた敵はローマ軍の略奪にさらされた!)ポンペイウスに勝る,彼の命令以下,手足のように働くベテランぞろいの生え抜きの軍団を育て上げたのである。
そんな中,クラッススが死んだ。三角形のバランスが崩れた。
ルースは何を意味するのでしょうか?
保守派の貴族の牙城である元老院には,常に斬新な政策を持って民衆の喚起の声を浴びるカエサルが恐ろしかった。彼が,ローマの伝統的な貴族支配体制を破壊しようとしていると考えたからである。そこで元老院は,かつて敵対したポンペイウスに擦り寄り,ポンペイウスもまたみずからに対抗できるだけに成長したカエサルに対するため,この両者は手を結ぶことになった。そして,前50年,元老院はカエサルに対し任期切れを理由に「ローマ帰還命令」を出した。しかし,その命令に従えば,カエサルはガリアで鍛え上げた軍隊を解散して,一人ローマに向かわざるを得ず,それはとりもなおさず彼にとっては「死」を意味した。そして迷いながらもやってきたのが,属州ガリアとイタリア本国との境界線,北イタリアのちっぽけ� �(しかし歴史上はナイル川以上の意味を持つ)ルビコン川である。彼は思い悩んだ。軍隊を連れてこの川を渡れば自分は国家反逆者,ここで軍を解散すれば行きつく先は身の破滅。・・・前49年1月11日,ついに彼は決断し,全軍に号令を発した。
「賽は投げてしまおう!」-賽は投げられた。もう後には引けぬと。
カエサルに国家反逆者となる度胸はないものと,たかをくくっていた元老院とポンペイウスは,カエサルの怒涛のごときローマ進軍にパニックとなった。とりあえずギリシアへ逃れる元老院。それを追うカエサル。両者の最終決戦はギリシアのファルサロス(前48年)。カエサルは部下たちにこう命じた。 「今日は心臓は狙わなくてよい。奴らの顔を狙って傷つけてやれ!」
ポンペイウスの軍は,義理と人間関係のしがらみで参加している金持ち貴族のボンボンたちばかり。顔が傷つけばお婿に行けぬと,パニックになるだろうと予想しての言葉であった。そしてそれは図星であった。ポンペイウス軍は壊滅し,ポンペイウスは命からがらプトレマイオス王朝の支配するエジプトへと逃れた。かねてから援助を行ってきたこの老大国の援助を当てにして再興を願ったのである。しかし,彼を待っていたものは援助ではなく刃であった。ポンペイウスは上陸直後に暗殺された。エジプトにとってこのように重い「敗者」を受け入れることはみずからの存亡にかかわることだったからである。ポンペイウスを追ってエジプトに着いたカエサルが見たものは,かつてのライバルの生首。しかし彼はこのとき涙を流して� ��敵手の死を嘆いたという。
ところで当時のエジプト王国は,共同統治者であったプトレマイオス13世とその姉クレオパトラのいさかいから内乱の最中にあった。さてエジプトをどうしたものかと思案中のカエサルのもとに,ある夜,ひと巻の絨毯が届けられた。いぶかしがるカエサル。しかし,その絨毯はひとりでに広がると,中から一人の美女が登場した。カエサルの支持をたのんで,厳重な警備をかいくぐって,女王みずからが彼の元へとやって来たのである。カエサルは,この女王の美しさと,それにもまして彼女の聡明さに惹かれ,たちまちクレオパトラと恋に落ちた。二人の間には男の子も誕生した。(不倫の子ではあったが・・・。)人々は,この世紀の恋に圧倒されていた。
しかしカエサルに安住の日々はない。ポンペイウスの残党を倒し,来るべきローマ-「ローマ帝国」のグランドデザインを作成しなければならなかった。当時ローマは,有力貴族による寡頭政治体制が行われていた。(共和政ローマ)しかし,このシステムはローマがまだちっぽけな都市国家のときにはうまく機能しても,前1世紀の,全地中海を支配する大帝国のシステムとしては無理があった。政策決定,指揮・命令系統があまりにも非効率であり,言うならば町内会が日本全体の行政を行おうというようなものだったからである。カエサルはそれを見抜いていた。この巨大化したローマを統治するためには,権力の一本化-すなわち「ローマ帝国」の設立しかない。いつのころからか,彼は「王」になる望みを抱くようになった。し� �し,かつて血を流し「王政」を倒し,「共和政」を勝ち取ったローマ人にとって,「王」という名は「悪魔」にも等しい響きを持っていた。カエサルの意図はどうしても理解されなかった。悩んだカエサルは,当時イランにあったパルティア王国遠征のため,「イタリア本国外」でのみ王号を帯びるという折衷案を持ち出した。そしてそれが元老院で審議される前44年3月15日,そこで彼を待ちうけていたものは彼を王に推戴する人々の歓喜の声ではなく,十数本のきらめく刃であった。「ローマに王はいらぬ!」「独裁者を倒せ!」-そう叫びながら襲い来る暗殺者たち・・・。カエサルはひるむことなく手に持った錫1本で立ち向かっていた。しかし,その暗殺者の群れの中に一人の若者の姿を見とめたとき,彼はすべての抵抗をあきらめ ,その場に倒れこんだ。「ブルートゥス,お前もか・・・。」息子のように(いや,実は本当に彼の隠し子であったという説もある)愛したブルートゥス。彼さえもが自分を殺そうというのか・・・。その場は,奇しくも,元老院議場入り口,ポンペイウス像の足元であったという。
こうして彼は倒れた。しかし,彼の描いたグランドデザインの確かさは,彼の死後養子として跡を継いだオクタウィアヌスが,ローマ初代皇帝アウグストゥスとして,その後1000年以上続く,大ローマ帝国の礎を築いたことからも明らかであろう。
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