今なぜ直訳なのか!!
聖書を手にして読み始めた人が、誰でも最初に気づくのは「分かりにくさ」ではないでしょうか。私も聖書を手にして初めて読んだ時、少なからず戸惑いました。繰り返して読めば読むほど意味不明となるのには参りました。イエスキリストやその弟子達 のが難しい論旨不明の発言をしたとは到底考えられず、当時の人々がそんな難解な物を教えられ て 理解し、ローマ帝国の迫害の最中に入信する人が驚異的に増加する事はあり得ないと思い、聖書に関する事実を知ろうとして3つの神学校に合計8年学びました。そして 牧師となって聖書を教えるようになって早2 9年の歳月が流れてしまいました。
その37年間に、心がけた事は唯一、「説教には必ず聖書原典を読む」という
神学校が教えた基本であり、神の言葉である御言葉の説教者として
あたり前のことでした。
そして、今の私の結論は「聖書は原文で読めば分かりやすい。」という事です。
その原文の持つ分かりやすさを少しでも記録に止めようとした物がこの直訳です。
しかし、これを見て下さる方には、いくつかの点に注意していただきたいのです。
以下に、皆様に注意していただくこと(ギリシャ語原典翻訳の問題点)を記します。
原典が翻(邦)訳にされる時の6つの問題点
1・具体思考(聖書が記された当時の読者に対する前提、翻訳の根本問題)
・旧約聖書や新約聖書が預言者や使徒達の口述筆記により、聖書として文字で記された当時は、殆どの人が文盲でした。当然のことですが、 彼らは書かれた聖書の文字を自分で読むことは出来ませんでした。彼らは会堂や教会の集会に出席し、特別な知識をもった教師が朗読する言葉を耳から聞いて、そのままの音声 を直接に理解していたのです。その時、当然のことですが聖書の朗読を聞いた会衆は「耳で 聞いた言葉を文字や文章にして理解せず、 幼児の様に脳裏で直接情景に変換して理解」していたのです。
当時、これはごく当たり前のことでした。現代に生きる私達は幼い頃から識字教育を受け、文章を読む事に慣れているため、この直訳は一見難解に思えるでしょう。しかし、当時の人々同様に、書かれた直訳を誰かに音読してもらい、その音声を脳裏で現実(映像)に変換して見ると、実に分かりやすく、しかも明解に記されていること に驚かれるかと思います。
ギリシャ語の原典を朗読する音声を耳で直接聞き、頭で直接情景に変換することがあなたに可能であれば、翻訳もギリシャ語の原典釈義や解釈も不要です。主イエスや、パウロや使徒達が言いたかったことがダイレクトに心に伝わって くるでしょう。直訳はその様な聖書理解の究極の理想に向かって小さな一歩を踏み出すため、このような形で作成されています。
2・コイネーグリーク(会話専用の言葉なので文章にすることにそぐわない)
・紀元前4世紀に当時の全世界を手中に収めたかのアレキサンダー大王が各地にアレキサンドリアを建設し、広めたのが新約聖書や70人約ギリシャ語訳旧約聖書の記されたコイネーグリークです。いわゆる古典ギリシャ語とは異なった、しかし紛れもない同一のギリシャ語だったのです。その特質は、文語(古典ギリシャ語)ではなく口語(庶民の会話)だった点にあります。 正当なギリシャ語ではアッテイカ方言に属しますが、この言葉はバルバロス(外人=野蛮人)や教養の無い人々が使った低俗なギリシャ語として蔑視されていたのです。古代ギリシャ で書かれた文書は 、ほぼ例外なく古典ギリシャ語であったため、ギリシャ語を学んだ中世の多くの学者は聖書のコイネーギリシャ語に戸惑いを覚え、在る者はこれを蔑視し、ギリシャ語原典の聖書の信憑性を問題にしたほどでした。しかし、今日考古学の発展と共に、コイネーグリークの正統性も広く認知されるに至りました。
残念な事に、この会話専用の古代地中海世界に広く流布した庶民のコイネーグリークで記録されている聖書が、どういう間違いが文語である古典ギリシャ語と同様の文章として翻訳されてしまったのです。 端的に言えば、新約聖書のコイネーグリークは庶民の話法(話し方の規則)であり、古典ギリシャ語は有識者の文法(書き方の規則)と言うことになります。
・問題はそれだけではありません。庶民の話したコイネーギリシャ語はローマ帝国支配下にあって祖国を失い奴隷や難民となった貧しい人々が生きる為に用いた生活の言葉でした。 この人々は強権政治を行うローマ帝国の支配からの開放という地上では望みえない希望を天国に託して教会に集っていたのです。 そのようにローマ帝国配下にあっては敗者の宗教であったキリスト教会の教えは、当初は文章にはなされなかったのものでした 。しかし、ローマ帝国が迫害すればするほど初代教会はローマ帝国支配下で苦しむ多くの人々の信望を得て、飛躍的に発展するという皮肉な 結果をもたらしたのです。その様な根強いキリスト教会の勢力拡大を「将来的反ローマ帝国勢力の脅威」 と判断したローマ帝国 は国家の総力を挙げて更なる迫害を加え指導的な立場の人々を次々と獄中に投じ、見せ物にして殺戮したのです。
第一長老派教会ウィチタが低下
・主イエスの生涯や、初代教会の宣教を自分の目で目撃した証人達が徐々に当局によって殺害されたのです。使徒達は自分達の殉教が不可避と判断し同信の兄弟 たちの殉教を目の当たりにしたのです。彼らは自分の目で見た目撃証言を残す為に当時は莫大な費用を投じて自分自身の目で目撃した事の一切を文書に記録したのです。ここに初めて会話であったコイネーグリーグが文章に写し取られて書面となったのです。この様にして、本来は文章に書かれるべきではないコイネーグリークによって語られていた使徒や主イエスの教え=会話が教典という文字に書かれた会話文書 となり、ローマ帝国迫害下の地下教会内で極秘に次から次へと筆写され同時に広く流布して行ったのです。これらの文書が、初代キリスト教会によっ大切に収集保存されて、今日 に伝えられ、キリスト教の聖典とされた新約聖書です。
・そして、時代は皮肉な結果をもたらします。3世紀程の時間が経過した時、迫害されたキリスト教会は帝国の多数派としての不動の地位を確立します。同時に、迫害したローマの支配者階級は安逸を貪り権力闘争煮明け暮れ、道徳的にも財政的にも疲弊して支持基盤を喪失し帝国存立の危機に直面してい きます。このような時にローマ東方帝ガレリウスによって弾圧を中止する寛容令(AD311) 、直後には「最早キリスト教会の庇護無くして帝国の存続は不可能」という政治的判断を下した 西方帝コンスタンチヌス1世のミラノ勅令(AD313) によってキリスト教は帝国の公認宗教となり、やがてテオドシウス大帝によって (AD380年)ローマ帝国の国教と されます。迫害される宗教から今度は迫害する宗教に立場を変えたのです。そして 、これもまた皮肉なことにローマ帝国迫害下にあって記された聖書が迫害したローマ帝国の権威の象徴としての立場を与えられキリスト教国であるローマ帝国の国威に相応しい国教聖典 の品位と格調が聖書にも要求されるに至るのです。
・被抑圧階層の奴隷や難民達の言葉であるコイネーグリークでしかも、口頭で語られた、庶民の為の聖書が皮肉にも世界を支配するローマ帝国の国教としての国家の威信を表す為の聖典となります。そして、ヒエロニムス という国家的な大学者によって、国家の命令によって支配者の言葉であるラテン語に翻訳されます。おそらく当時のローマの政治家たちはこんな経緯を殆ど理解しえなかったでしょう。いや、彼らにとって聖書に記されている本来の内容その物はどうでも良かったのかもしれません。 彼らにとって大切な事は、現在の自分達の保身と権力の維持発展に民衆が広く支持する聖書を利用すること でした。これは 、ローマ帝国にとって崩壊しかけた帝国の威信面目を聖書によって再構築し、反抗的な周辺諸国や少数民族を恭順し、神の権威の下に国家がある事を精神的に受け入れさせ国家に 従順にならす為に大変役立ち、賢く 、手軽な方便だったのです。 この様にしてラテン語に翻訳されたヴルガタ訳は長い間キリスト教会において唯一の公忍聖書とされ、これ以外の聖書解釈や翻訳をした物は異端審問され、磔刑の憂き目にある事が宗教改革の時代に至るまで定まっていたのです。
・その結果、このローマ帝国に迫害され殺戮された初代教会を励ます為に記された神様の言葉である聖書が、皮肉なことに法律や文法に精通した地位も名誉もあるローマ帝国の学者と、富と権力にまみれたローマ帝国の王族や政治家たちの手によって国家の威信のよりどころとして利用され、帝国に都合良く解釈され、支配者(ローマ帝国)の言語であるラテン語に翻訳される事となったのです。これ以後、聖書は書かれた当初とは全く異なった立場の人々によって文章解釈(釈義)の対象とされたり、文章構造解析という近代言語学の学問的対象として研究され る事となります。
・ここに、庶民の会話であった聖書のコイネーグリークで記された会話が、文語と全く同じ観点でドイツ語や英語に翻訳されていく基礎が確立されます。そして、その伝統 は今日まで連綿と受け継がれ、 世界の多くの言語に、それぞれの国の支配者である人々の都合の良いように訳され、また自国民だけではなく植民地支配にも都合良く翻訳された為政者の為の宗教教典として出版される伝統が普遍化することになります。なぜなら当時その様な翻訳作業をなし遂げ、莫大な資本を要する 出版をなし遂げる事は一大事業であり、その様なことが可能なのは広大な所領と巨大な大聖堂を擁する権力を持つ教会か富と武力をもって民衆の上に君臨する王族以外成しえない大事業だったからです。そして、 その様な聖書翻訳は要した経費以上の利益を為政者や聖職者の所属する宗教団体に還元したのです。
・その最たる現象は、 聖書の権威を傘に着た国家権力と癒着した教会権力が「王権神授説」などという世俗国家と権威主義に堕落した教会双方に体制の安泰と莫大な経済的収益を保証する権威ある学説を流布 した事に見られます。この聖書に全く根拠のない 「王権神授説」という学説は大変国家や国家と癒着した堕落したキリスト教会には都合の良い物でした。その様な目的で発明されたこの学説は今日に至るまで尚キリスト教国の威信の根拠とされて それキリスト教国と言われる国の体制の中に君臨しています。
不安、有限性、ティリッヒ
・そして、今日では 聖書が記された当初とは全く逆の立場に在る人々の手によって国立や教会立や王立大学などの学問的権威を背景とする特権階級の人々だけに聖書の解釈権が公認される様になってしまいました。これらの学問的権威を付与する機関では、為政者や権力者達が教師の任免権と経営権を握っています。そうして雇われた人々は聖書や神学の学問的業績が高く評価されるような解釈をなし、ウルトラC級の高等ギリシャ語文法のを駆使した曲解集大成のような権威在る古典的な翻訳聖書を支持します。それらの権力者に認められた翻訳は神聖冒されざる権威とされて、以後の翻訳を支配し続けているのです。その権威の下になされた聖書の曲解釈や為政者の都合に合わせた翻訳の方針がガイドラインして確立され 、権威在る大学で学位を授与されたもの達が様々な各国語による翻訳作業を進めて今日の一般的な翻訳聖書が出来ているのです。
・原文では漁師や大工を初め取税人などという国家体制維持とは無縁の純朴で無骨な人々によって、真摯に記された庶民の会話が なんの飾りも無く純朴に記されています。しかし、翻訳は為政者の都合に影響されて内容がすっかり変質してしま っているのです。神様ご自身の意図とは反対に、国家その権力に癒着する権威の象徴として聖書が位置づけられてしまいます。格調と品位在る立派な文章と成るように翻訳されるのが 、内容の正確さよりも当然の如く大切な物として翻訳されています。そうして、今日の日本語に訳されている聖書も、その様な長い歴史の変遷を経て、原文の主張からは想像もできないほどかけ離れた内容を 持つに至ったのです。それゆえに、 翻訳された聖書の外見や文面は見事に立派で在るけれども、全体として翻訳された聖書の肝心の中身は読んでも読んでも理解困難であり、巧妙な国家のお墨付きを得た大学者の詭弁的解釈 や注解無しには理解しえない難解な文章としての日本語訳聖書が一般化してしまう結果をもたらしているのです。
この直訳聖書は今までの長い聖書翻訳の伝統にはっきりとNOと言う言葉を突きつけて、イエスキリストとその弟子達に会話によって人の口から人の耳へと伝えられた福音の継承をめざして作成されたものです。
3・語順直訳(コイネーグリークの最大の特質は強調点は語順によって示される)
・ギリシャ語には、英語のような文型はありません。 人称に加えて性、数、格などの変化が厳密に決まっている為、英語のような構文や文型に捕らわれる必要が全く無いのです。そうして語順を全く考慮する必要が無く、単純に脳裏に うか んだ情景をそのままギリシャ語の単語にして羅列するだけで、話者が意図したことがそのまま正確に相手に伝えることが出来るのです。
強調したい順番に単語を羅列して話すのが、コイネーギリシャ語の一大特質です。多くの翻訳が、英語等の文章構造や固定化した文形や、構文に囚われて正確に翻訳する事を意図すればするほど、原文 が 語順によって強調している話者の意図は反比例して不明確になってしまうのです。
★ヘブル語原典と70人訳ギリシャ語原典は語順が一言一句同じ。
特に興味深いのは旧約聖書ヘブル語原典をギリシャ語に訳出した70人訳ギリシャ語旧約聖書の語順です。じつはほんの一部を除いて両者は一言一句完全に同じ語順に成っているのです。 ヘブル語はセム語属であり、ギリシャ語はインドヨーロピアン語族で全く異なった言語ですが、その両者があえて全く同じ語順に成っている事からも、語順の重要性がお分かりになるかと思います。
聖書翻訳者が、翻訳される言語の文法に従って正確に翻訳すると、肝心の聖書が伝えようとした「話者の意図 」が不明瞭となる結果をもたらすのです。その結果、翻訳者の努力とは裏腹に、原文で強調された聖書の重要点が訳文では必然的に不明瞭にな り、その逆に強調点を伝えようとして翻訳するとどうしても訳出された文章は文章としてどうしても不自然でおかしな物が出来上がってしま うという結果をもたらしているのです。
★説明
この事を理解するためにあなたが普段家族に話している普通の会話をそのまま手を加えずに文章にして、その文書をそのまま誰か他の人に読んでもらうとサッパリ意味が通じないことに気がつくでしょう。会話(口語)と文章(文語)の間には同じ言語(日本語同士)であったとしても、驚くほどの隔たりがそこには存在しているのです。
ですから、 会話の記録である初代教会のコイネーギリシャ語による主イエスや使徒達が目の前にいない遠くの教会の会衆にあたかも話しかけるようにして語り、それを正確に記録した初代教会の書記達の記録 したコイネーギリシャ語(=会衆に話しかけた会話)の記録を、正確 なキリスト教聖典の記述文章として認識し、それを他の言語に正確に翻訳する作業の結果がどうなるかは自明です。
会話と文語の違いに加えて言語の特質の相違がその上に重複されてしまいます。その結果、翻訳された文章は原文が言葉を通して心から伝えようとしている聖書の意図している内容から逸れ、難解で不合理な表現の 頭で理解しただけの型苦しい文章の羅列にな ります。その結果確かに翻訳された聖書は、一つ一つの文章は一見分かりやすいものの様なのですが、文脈全体を読んでみた時、肝心の主イエスや使徒達 が命懸けで宣教した、重要な強調点が 翻訳によって、すっかりぼけてしまっています。その結果、聖典として厳正に翻訳された文章は、大きなボタンのかけちがい(口語と文語の誤認)によって必然的に前後の文脈や書簡全体とちぐはぐで、統一性の無い、意味不明の難解な文章の連続となってしまうのです。
私が最初に手にした聖書を、熱心に読めば読むほど意図が不明確となり難解で、明確な理解を得ることが出来なかったのはこんな所に原因があるのです。
4・ 訳語統一(ギリシャ語は厳密な意味の単語を合成して多様な意味を付与する。)
質量の間に平和とは何か
・以上のコイネーギリシャ語の特質を踏まえて、使われている言葉(単語)が特定しやすい様に同じ単語には常に同じ訳語を使いました。言葉(単語)は文脈 の中で意味を持つのは翻訳の基本です。しかし 、ギリシャ語では一つの単語 があまりにも沢山の形に変化する為同じ単語が同じ文脈で別の語に訳されることがよく起きてしまうのです。その結果話者の意図が分かりにくくなることが多々在ります。
ギリシャ語の単語がどれほど多用に変化するかをご説明しましょう。一つの単語には接頭語や合成語に加えて名詞、形容詞、動詞、副詞、分詞、不定法、など の変化語尾が接合します。それらの変化語尾や接頭語が附属すると原文では同じ言葉なのですが翻訳する時に全く別の意味に訳さざるをえない場合が多々生じます。
原文では一つの文脈で同じ単語が繰り返し使われていても、多様に変化した語形である場合は、あたかも全く別の語に翻訳されている事があります。原文が読めないで翻訳を読んだものには 全く違う言葉に訳されている二つの言葉が原文では同一の単語であるとは思いもよりません。その結果話者が話している主題が不明瞭になったり、異なった意味に理解される誤解を生じ たり混乱してしまうのです。それを防止する為、あえて同一の単語に対しては常に同一の訳語を当てはめました。
もちろんその訳語にはその単語の基本意を表示しています。更にギリシャ語の特質である合成語に対してもこの原則を適用しました。ギリシャ語で良く使われている前置詞との合成語には特に固執しました。それは、ギリシャ語はこの合成語が多い為 、読者か文脈で重要な中心となる単語を認識しやすくし、且つ前後の文脈からの著者の意図をくむためにそのようにしました。
5・品詞無視(大抵の言葉は短い語幹に品詞語尾が接続して品詞としての働きをしている)
・ギリシャ語には英語の様な、いわゆる品詞(動詞、名詞、形容詞、副詞等)はありません。一つの厳密な意味を持った短い語幹に品詞の働きをさせる為に動詞、副詞、形容詞、名詞等の品詞 の働きをしていることを明示する「多様な語尾」が語根に多数接頭、合成、接尾して多様な意味を持つ語(=英語の品詞に相当する)を構成 しています。繰り返し同じ語幹が使われているのに品詞語尾が異なっている為別の言葉に訳されることが多いのです。
・もちろん辞書類には品詞の区別がなされています。しかし、前後の異なった場合の品詞の語形をよくよく注意して見ると全く同じ語根にそれぞれの品詞特有の語尾がそれぞれの品詞特有の変化形をもって接合されていることがわかるでしょう。
★一例を上げましょう。非常によく使われるλογと言う語幹を見てみましょう(新約中に約500回で関連動詞のλεγω=1343回等、を加えると約2千回登場)。 これに男性名詞のοsがつくと「λογοs=言葉」という男性名詞になります。これに女性名詞の ειαがつくと「λογεια=献げ物or金」となります。これに形容詞の語尾ικοsがつくと 「λογικοs=道理」になり男性単数複数、女性単数複数、中性単数複数)のそれぞれの形容詞としての変化を行います。もちろん動詞の語尾がつくと 、「義認」と訳出されている新約聖書中の重要な用語「λογιζομαι=勘定する」という能動形欠如動詞になります。そしてこれらの語には前置詞(20種類余りある)が接合して多様な意味を創出しているのです。 実際この語の合成語は新約聖書中に20語在りますがそれぞれは全く別の語として訳出されています。その典型としては2コリント1章8節に登場するεξαπορηθηναι (この語は3語の合成(接合)語で「εξ+απο+ρηθηναι」それぞれの語を原形にすると「εκ+απο+ρεω=λεγωのアオリスト(未来形と同形になる)の不定法受動態=ρηθηναι)」などはその典型です。辞書でこの語は「途方に暮れる」等となっていますが゙、この単語を構成するそれぞれの言葉は「外に+離れ+事実=言葉」となります。これら全ての多様な意味を表している言葉はギリシャ語の原文で全ては同一の語λογであり 、ギリシャ語としては同一の概念を示しているのです。
・逆に言うとギリシャ語では単語の厳密な意味を正しく理解すると、ギリシャ語を学ぶ為に記憶する単語数を数十分の一に圧縮する事が可能になります。なにしろ単語を一つ覚えればそれが20倍近い意味を表すのに用いられるからです。古代においてギリシャ語が公用語として広く用いられたのはこのような理解のたやすさに加えて記憶する必要の在る基本語彙が極端に少なかった事が重要な要素であった思われます。高度な教育や知識の無い庶民でもたやすく理解できるギリシャ語は商売や訪れる外国の人々とのコミニュケーションのツールとして大変便利な物だったでしょう。神様が聖書を記す為にコイネーギリシャ語を用いられたのは「誰でも簡単に理解できる本当に簡単な言語であった」為だといえるでしょう。
・さてこの「λογと言う語幹」の概念を理解するヒントは一番最初に示した「λογοs=言葉」 という言葉の用例にあります。 新約聖書には330回登場しますが、ある箇所では「λογοs=言葉」は言葉ではなく全く別の言葉に訳されています。
ルカ1章4節 → λογοs→訳語→事柄=新改訳、事=口訳、非訳出=新共同訳、
使徒15章6節→λογοs→訳語→問題(新改訳、新共同訳、口語訳)
等です。特に注目は以下の箇所です。
第一ペテロ3章15節→λογοs→訳語→非訳出(新改訳、新共同訳、口語訳、殆どの英訳)
説明・合成語の弁明と言う語( απολογια=アポ+ロギア )の直後に 「あなた方の言葉=λογον を要求する者らに」という重要な一句が在るのですがいずれの訳もこの点が理解できずに「言葉=λογον」を訳出していません。此の箇所のいずれの翻訳(殆どの英訳を含めて)もあまり誉められた翻訳 とはいえません。
・じつは「λογοs=言葉」の言葉の概念はへブル語の「言葉」を表すダバールと同じ概念なのです。その意味ですが、言葉は確かに言葉なのですかこのロゴスと言う言葉には必ず対応する事実が存在しなければならないのです。その様な事実の無い場合には「μθοs=ムソス=作り話」や 「ρημα=レーマ=語られた言葉」を用います。ですから此の λογ という単語が表出している概念は「実言=事実と対応した事柄」という概念でありそれが動詞になった場合は「勘定する」と訳され、形容詞になると「道理」と訳出され、女性名詞(=受け身の動作で表される名詞)になると「献げ物or金」と訳出されているのです。しかしギリシャ語の原文では全て同一の明確な概念を表出しているのです。 残念なことに統一した用語にする事は困難なため、直訳では「実言」とか「言葉=事実」、「献金=言葉」などと訳出しています。
・簡単な説明ですが、お判りでしょうか?この事の理解に至る為には一つの障壁があります。それは動詞の場合の語幹の特定に 対する知識と理解です。動詞の語幹の特定はギリシャ語では結構面倒なのです。未来形や不定過去の不規則変化形(=原形を全くとどめていない難解な変化形の語幹)が語根に用いられている場合が多く あるからです。確かに、ギリシャ語の厖大な不規則変化は頭で理解し覚えるのはかなり大変です。しかし、会話で喋る事をする場合には大変重宝です。なぜなら 不規則変化は大変登場頻度の高い語に限られており、音便などは大変簡単に発音でき、同時に口での記憶がたやすいのです。規則変化で発音すると舌を噛みそうな場合も、不規則変化で発音すると舌が自然にそのように動いてくれるからです。ですから文字としてギリシャ語を記憶する場合には相当頭がよくないと 正しく変化を特定出来ないのですが、文字を知らないで音声で記憶し音声丈で不規則変化を使っていた当時の庶民の立場に立つとこの事は大変簡単な事なのです。そのため 、会話としてではなく文語として頭だけで聖書を学ぼうとする立場の人には、確かにこの事の理解は大変難解でしょう。そのような人は動詞変化にそうとう精通して初めて、当時の奴隷や貧しい人々が楽に理解していたギリシャ語の健全な理解や判別 のレベルに到達が可能になるでしょう。そして同時に、この品詞無視という直訳の主張も理解出来る様になるでしょう。
・ギリシャ語では、以上説明したように、全ての単語は大抵この品詞語尾が接合した形で文章を構成しています。そして、文中の単語がそれぞれの品詞としての働き(意味)を訳出する以前に、その語根もその物が持つ意味の方が文章の中でより重要な意味を持っていることが多いのです。それを分かりやすく表す為に、いずれの 品詞の語尾がついていても語根(元の言葉の)基本意を訳出する様に務めました。また同時に、その他の、接続されている多くの 前置、接頭、合成、接続語尾等の単語を構成するそれぞれの要素の一つ一つに対しても無理にそれぞれの基本意だけを訳出 して合成語単体の意味だけを記すことはしませんでした。
ですから直訳には翻訳とは明確に異なった執拗な言い回しが所々に登場しています。
6・動詞の詳訳(翻訳にほぼ訳されていない動詞の人称、時制、態、法の意味を記した。)
・ギリシャ語を難解にしているのは動詞になっている場合の単語の複雑な上に不規則で膨大な変化形です。(ギリシャ語では動詞の場合だけで800程の変化形を持ちえます。)直訳では、それらの 全ての場合には語幹に常に同一の基本語彙を当てはめ、変化しているその動詞の変化形の持つ意味をその語の前後に付け加えました。以下はそれらの変化形の持つ意味の具体例 です。
人称・ 単数 1人称→わたしは 2人称→あなたは 3人称→ 彼は
複数 1人称→私たちは 2人称→あなた方は 3人称→ 彼らは
時制→ 時制は日本語や英語のテンス(時制)ではなく行う行為の種類を示す。
現在時制、→ し続けている (継続反復動作を表す)
完了時制、→ していた (過去の行為の結果が現在存在する場合)
未完了時制→している (現在している動作がやがて終わる場合)
完了(アオリスト)→ した (歴史上反復しえない行為、現在や未来にも用いる。)
大完了→してしまっていた (過去の行為の結果が現在存在しない)
未来→ 確かにする (行為の確実さを示す、過去や現在にも用いる)
法→ 直接法 (主語が行動する場合)
接続法(厳密には可能法) 最後に(為)を加えた
命令法→ しろ
希求法→ せよ
態→能動態 している (行為の主体が主語)
中態 自分の為にした (行為の目的が主語)
受動態 された (行為の主体が主語以外=主語が客体=「救い」は常に受動態)
分詞形 →分詞は基本的に動詞語尾の一種で時制の意味と態の意味を持つ。同時に名詞として性、数、格、の変化も持ちます。その為、分詞は動詞を名詞化している物とて 「している(ら)は」等と訳出し 名詞としては格変化と単数複数 (主=は、属=の、与=に、対=を、複数には「ら」を挿入)を区別する為の助詞を最後に付け加えた。
結 論
以上の6つがコイネーギリシャ語の特質です。これらは全て普通の翻訳では訳出不可能です。その為、殆どの(現実には全ての)翻訳と直訳は全く異質な物であるように感じられるかと思います。しかし 、ギリシャ語の原典が明示している意味は直訳がより精密であることをご理解の上、この直訳をご利用ください。
Copyright (C) 2006 Akio Moriwaki All Rights Reserved.
訳に関する 引用、転載、リンク等は下のリンク掲示板に引用、転載の箇所と
趣旨の記述と、実名並びに有効なメールアドレス並びにURLを記載してください。
引用、転載、リンク掲示板 訳文や校正、質問、疑問等は直訳掲示板
版権者への連絡はこちらへ
リンク用のボタン をご利用ください。
2010年05月12日
0 件のコメント:
コメントを投稿