2012年6月4日月曜日

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2012年6月3日日曜日

Laudate | シスター今道瑤子の聖書講座


バックナンバー

聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子

第2回 新約聖書の言語 1

新約聖書を構成する文書の原語はギリシア語ですが、ホメロスやプラトンのような古典ギリシア語ではなく、アレキサンドロス大王とその後継者たちによってその支配下のすべての地域の公用語とされた ヘレニズム時代の「コイネー(共通語)」と呼ばれるギリシア語です。

新約聖書のギリシア語のレベルは 一様ではなく、本によってギリシア語の洗練度はかなり違っています。ペトロの第一の手紙の文章は流麗ですし、ヘブライ人への手紙の著者や、第三福音書と使徒言行録をつづった著者も、洗練されたギリシア語をわきまえていると専門家は評価しています。

著者の多くが アラム語を母国語とする人々であり、著作物の内容もユダヤと深くかかわるものであるだけに、全体にアラム語やヘブライ語が属する北西セム語の影響があるのも、新約聖書の言語の特徴といえましょう。

新約聖書のできるまで

新約聖書は現代のわたしたちまで、どのように伝えられたのでしょう。

前回新約聖書は27書から成ると申しましたが、もちろん原文はとうに失せ、わたしたちには写本によって伝えられています。

イエスは書き物を残されませんでした。彼が公衆の前で福音をのべ伝え、言葉と業をもって神の最終的救いの到来を告げたのは、短い生涯の最後の2~3年のことでした。活動範囲も故郷ガリラヤ地方と、そこから幾度か巡礼されたエルサレムと、そこへの道程を主とする限られた地域です。

イエスはその活動のはじめに弟子たちを選びました。自分のかたわらにおいて、つぶさに福音を体験させ、後生にそのあかしをさせるためです。彼らはイエスの人柄に魅了され、思慕と畏敬(いけい)の念をもってつきしたがいました。しかし、師の生前には、イエスがどなたであるかを正しく把握するにはいたらなかったと思われます。

身近にイエスの慈しみや人並みすぐれた権威に触れ、この方こそ神が先祖に約束された解放者であり、かならずローマの支配からイスラエルを解放してくださる方だと誤解していたようです。

イエスの十字架上での死は、彼らにとっては大きなつまずきだったことを 福音書は語っています。ところが、復活された主との出会いという信仰体験が彼らを力づけ、復活された主に導かれてともに過ごした日々をかえりみながら、イエスがどのような意味で救い主なのかを思い知ることができました。